会報誌「パドラー・タマ(自然と共に)」50号の発行 おめでとうございます!!
大変「質の高い会報誌」に満足しております。
1995年初夏 小生が「御岳の魅力」を感じ始めたある日、御岳帰りにあきる野市のファミレスでクラブ会報誌の名称・構成を提案し、
同年9月に4年振りに「Vol.3」として発行されました。命名の由来は、15周年漂流記に記したとおりです。
1995年当時は、会員数が80名を越す大所帯のクラブでした。
様々な都合でクラブ行事に参加できないというペーパーパドラーも多数あり、
その方達を含めて「クラブの進む方向・活動状況など」を全員に伝達する事は大変難しい状況でした。
活動の輪の中にいる人と、そうでない人との間には、大きなコミュニケーションギャップが生じ、活動する人は更に活発に、
そうでない人は更に疎くと、その溝は時と共に深まっていったと思います。
当然情報の共有には限度があり、「聞いてないよーっ!!」といった不満も生じました。
こんな事態は、一刻も早く解決しなければなりませんので、
当時のクラブ運営上 クラブ全員との意思疎通を図る事は、重要な課題でした。
クラブ運営に全員が参加する為に「必要不可欠な伝達手段=会報誌の発行」は、役員を初め多くの会員の一致した見解でした。
そして 機は熟し「Vol.3」へと繋がっていきました。
1994年は、プール中心の活動(カヌーポロなど)からリバーツーリングへと意識が外へ向き始めた様に思います。
カヌージャーナル(現在のカヌーライフ)などの季刊誌でも、全国のリバーツーリング情報が盛んに記載される様になりました。
そんな中でクラブ員有志による「自分達で企画した初のリバーツーリング」として、富士川を選択しました。
ジャーナルで紹介された情報を頼りに、小生が下見に行きました。
全てが初めての作業で、スタート地点の調査や沿道から観察した川の様子・ゴール地点の調査・車の回送方法などを調べ、
コースを富士川橋下流約1km地点から飯富橋までと定め、クラブ員の方々に報告しました。
皆の気分も外に向いていたのでしょう。直ぐに「行こう!!」という事になり、下見調査資料のみで行動が開始されました。
沿道からの川の様子と漕ぎ出してからのそれとには、大きな差がある事は、今のクラブ員であれば誰もが知っている事でしょう。
予期せぬ事が多々ありましたが、全員(10名)が無事帰還しました。
ものすごい満足感に浸り、クラブ員の多くの方々にも、この感覚を味わってほしいと強く思いました。
この事を実行に移すべく帰郷(東京→磐田市)の際、気田川の下見をしました。
コースを杉川の合流地点から気田川橋まで(およそ24km)と定め、
1996年4月クラブ公式行事として「第一回リバーツーリング気田川の巻」が行われました。
24kmという「とんでもない距離」を、10時スタート5時ゴールと予測しました。
皆さん笑わないでくださいよ!!当時は誰も疑わなかったんです。
この時の様子は、「パドラー・タマ Vol.4」に記載されています。
その後リバーツーリングは、年間5回以上多くのクラブ員と楽しさを共有し、
参加できなかった方々も「パドタマ」でその詳細を知る事となりました。
「パドラー・タマ (自然と共に)」は、1996年より四季に準じて年4回を基本に発行される事になり、
既に10年以上欠かさず発行されています。これは大変な事です。
編集を担当される方はもちろんの事、依頼に快く応じ期日までにきちんと寄稿される会員の皆さんの協力も大変大変すごい事です。
体験した事を整理し、記録に留め、クラブ員全員にそれを伝達する。
この全員が共有した記録の重みは、当クラブの誇りであり、他の多くのクラブに対しても自慢できる事です。
この会報のおかげで、参加できなかった行事の仔細を知る事が出来「それでどうなったの?」「その場所は行った事がある」
「うわっ今の私の技術では無理かも…」「次回こそ是非とも参加したいものだ」
などなど気軽にその話題の中に入っていく事が出来ると思います。
この様に「パドラー・タマ」は、クラブ員全員を固く結びつける最
も大切な絆であり、架け橋であります。
「クラブの最近の出来事・これからの行事・クラブ員の思い」
を会報誌に記載しクラブ員全員が情報を共有する事こそクラブ活動であろう と思います。
これからも期待しています。
「パドラー・タマ(自然と共に)」を首を長くして待っている一クラブ員
太田博司より
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